2009年1月30日金曜日

Responsibility 雑記



私たちの言う責任とは人同士の理の中のもので
多くは人間関係を調整するために使われています。

人は負う負わないの選択や意思とは関係ないところにも
時には負っている責任があります。



それとは別に
人の枠を超えて
「世界」や「生命」には
責任があるのかと
考えます。


生命に課せられた指令「種を保存する」とか
生命には責任を負う必要はあるのかしら。

「選択の可能性」と「非選択に起こる事象」がすべてのものに
ある(起こる)のですが。

この世界で、既知の生命は種を繋ぐように体と性質がデザインされており
それは非選択事象だと思います。

しかしどこかで選択したのか、またはされたのだろうか?



ただただ、この星では
生き続ける事ができて
しまったので今の世まで生命があって


私も生命。


太陽は
木々のために
光と熱を発してはいない

豚は我々の体を生かすために
肉をぶら下げてはいない。

我々はもしも太陽と豚を失っても
太陽と豚を責めることはない。

そういえばバックミンスターフラーが
木々は太陽に対価を払ってなどないような
話を書いてたなぁ



今日はこの辺で
眠ろう






何よりも先に世界があって
次にイメージか言葉を掴んでしまいます。

今日は
「この世界の寛容さと無責任さ」


私は理解がまだ乏しく説明できないが、
なぜか私は世界のようにありたい。



写真は前のブログでアップしたものの
初期イメージ図とエスキース

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